こんにちは、2000年からシリコンバレー在住のMAKIです。
原爆の父と呼ばれるオッペンハイマーさんが責任者となり、進められたマンハッタン計画。
計画の目的は?
あのアインシュタインは参加していた?
アメリカの子供達が習う「マンハッタン計画」の教科書から、
- マンハッタン計画の具体的な内容
- 関係していた科学者と事故で死亡した科学者
についてご紹介します。
マンハッタン計画の目的と命名理由
マンハッタン計画は、1942年5月12日、ルーズベルト大統領が核兵器開発のための秘密プロジェクト開始の命令に署名したときに始まりました。
目的は、原子爆弾の開発です。
ドイツや日本に所属する敵のスパイによって核技術が盗まれたり、ロシアの手に渡る恐れがあるため、マンハッタン計画は秘密にされました。
マンハッタン計画と名付けられたのは、陸軍省のマンハッタン工学部の下で始まり、その科学者たちがニューヨーク州マンハッタンのコロンビア大学で働いていたからです。
アインシュタインは参加したのか?
ハンガリーの物理学者、レオ・シラードは、アルバート・アインシュタインの友人であり、同僚でした。
核物理学の先駆的研究で有名だったシラードは、原子力がとんでもない爆弾を作るために使えることに初めて気づいた人です。
アルバート・アインシュタインがマンハッタン計画に関係したのは、1つだけ、ルーズベルト大統領宛への手紙です。
手紙は1939年8月2日付けで、レオ・シラードによって書かれたものでした。
アインシュタインは署名だけしました。
シラードの名前にしなかった理由は、アインシュタインの方が権威があって効果的と考えたからです。
手紙の内容は、
- 「大量のウランによる核連鎖反応」は間違いなく可能
- 「新しいタイプの非常に強力な爆弾」の建設につながる可能性がある
- ドイツが核兵器を開発しているかもしれない
といったものでした。
この手紙に応えて、ルーズベルト大統領は問題を調査するためにウラン諮問委員会を設置しました。
しかし委員会は科学者の話に納得できず、核兵器開発についても懐疑的でした。
委員会がようやく確信を持ったのは、1941年になってからでした。
すでに原子爆弾に取り組んでいたイギリスの科学者と会い、イギリスの原子爆弾プロジェクトに関するMAUD(ウラン爆発の軍事応用)レポートを読んだのが理由です。
こうしてようやくルーズベルト大統領は、核兵器開発のためのマンハッタン計画と呼ばれる秘密プロジェクト開始の命令に調印しました。
アインシュタインがサインした手紙は、委員会設置のきっかけにはなっていますが、核兵器開発の大きな後押しにはなっていない気がしますね?
マンハッタン計画の科学者
マンハッタン計画に携わった有名な科学者には、
- ロバート・オッペンハイマー(原爆の父)
- エンリコ・フェルミ
- デヴィッド・ボーム
- レオ・シラード
- ヴァネヴァー・ブッシュ
- ウォルター・ジン
- デヴィッド・ボーム
- ハーバート・L・アンダーソン
- ユージン・ウィグナー
- オットー・ロベルト・フリッシュ
- ルドルフ・パイエルス
- フェリックス・ブロッホ
- ジョン・R・ダンニング
- ニールス・ボーア
- エミリオ・セグレ
- ジェイムス・フランク
- アーネスト・オーランド・ローレンス
- クラウス・フックス
- アーサー・ワル
- エドワード・テラー(水爆の父)
という人達がいます。
この中でアメリカ物理学者のロバート・オッペンハイマーと、レズリー・リチャード・グローヴス准将が責任者を務めました。
マンハッタン計画では、放射線検出器を使って従業員の衣服や作業場などを測定し、安全対策として使用しました。
鼻スワブ(鼻咽頭培養検査)もまた、プルトニウム粉塵の吸入を検出するために使用されました。
マンハッタン計画での死亡事故
ロスアラモスの科学者ハリー・ダリアンと物理学者ルイス・スローティンは、ロスアラモスの「ドラゴンの尾をくすぐる(Tickling the dragon’s tail)」実験中に事故に遭い、急性放射線症候群で死亡しました。
「ドラゴンの尾をくすぐる」とは、持続的連鎖反応に必要な核分裂性物質の量を決定する臨界実験のための造語です。
ダリアンは1945年8月21日、球状のプルトニウムの上に炭化タングステンを落とし、臨界を引き起こしました。
大量の放射線を浴び、9月15日にダリアンは死亡しました。
スローティンは1946年5月21日、同様の事故で臨界状態となりました。
すぐに球を持ち上げて床に落とし反応を終わらせたため、近くにいた同僚7人は助かりましたが、スローティンは9日後の30日に死亡しました。
マンハッタン計画の内容
サイエンスフィクションの作家、H.G.ウェルズは、1914年の小説「解放された世界」で原子爆弾を使用し、空中砲撃と壊滅的な世界戦争を予測しました。
それが現実となったのがマンハッタン計画です。
プロジェクト施設と予算、規模
マンハッタン計画では、13万人の労働者を雇用し、第二次世界大戦の終わりまでに22億ドル(2015年で約260億ドル)の費用がかかりました。
しかし、かかった年月は4年もなく、多くはテネシー州オークリッジとワシントン州ハンフォードの広大な施設で行われました。
ニューメキシコ州ロスアラモスは、マンハッタン計画の主要原子爆弾科学研究所のコード名であるプロジェクトYのサイトに選ばれました。
ロバート・オッペンハイマーは、ロスアラモス国立研究所の所長を務め、原子爆弾を設計したプロジェクトYを担当しました。
秘密のロスアラモス拠点の唯一の郵送先は、ニューメキシコ州サンタフェにある郵便局、ナンバー1663でした。
オークリッジとハンフォードは、核分裂連鎖反応を起こし、原子爆弾の破壊エネルギーを放出するのに必要な量のウラン235とプルトニウム239を得るために使用されました。
核実験「トリニティ」
皮肉なことに、原子爆弾の製造に携わった科学者の多くはドイツから亡命してきていました。
マンハッタン計画のリーダーを務めたロバート・オッペンハイマーは、「原爆の父」と呼ばれていますが、彼はニューヨーク生まれのユダヤ系アメリカ人の物理学者で、父親がドイツ生まれです。
1945年7月16日、人類至上初の核実験「トリニティ」がニューメキシコ州で行われました。
人類最初の原子爆弾のコードネームは「ガジェット」です。
この実験の後、ロバート・オッペンハイマーは、ヒンドゥー教の詩篇バガヴァッド・ギーターの一節
「今や我は死なり、世界の破壊者なり」
を思い出したそうです。
こちらの動画でオッペンハイマー氏自身が語っているのを見ることができます。
彼の目が、後悔を語っているように見えるのは私の思い込みでしょうか…。
原子爆弾のタイプとコードネーム
第二次世界大戦中に開発された原子爆弾のタイプは2つです。
比較的シンプルな砲身型の核分裂兵器で、ウラン235を使うものと、より複雑な爆縮型です。
原子爆弾には4つの異なるサイズのケーシングが作られ、
- ガジェット
- ファットマン
- シンマン
- リトルボーイ
のコードネームが与えられました。
爆弾のコードネームは、マンハッタン計画に取り組んでいた米国の物理学者ロバート・セルバーが考えました。
セルバーは、マンハッタン計画中に作られた原子爆弾のデザイン形状に基づいて名前を決めました。
「ファットマン」は丸型で太っていて、映画「マルタの鷹」のシドニー・グリーンストリート演じるキャラクターにちなんで名付けられました。
イギリスの首相、ウィンストン・チャーチルを表していると見られていました。
「シンマン」は長くて薄い装置で、名前はダシール・ハメットの探偵小説「The Thin Man(影なき男)」から取られました。
ルーズベルト大統領を表していると見られていました。
「シンマン」は長さ5.2m、幅97cm、中域58cmの、プルトニウム砲身型核爆弾でした。
しかしプルトニウムを使った砲身型爆弾が実用的でないことが分かり、科学者は「シンマン」を放棄しました。
そしてより小さな「リトルボーイ」爆弾が採用されました。
「リトルボーイ」は、プルトニウムではなくウランを使用し、失敗した砲身型爆弾「シンマン」を開発したものでした。
長さ3m、幅71cmで、コードネームは「シンマン」との関係で付けられました。
「リトルボーイ」は、1945年8月6日、広島を標的に日本に落とされた最初の原爆です。
「ファットマン」は、1945年8月9日、長崎を標的に日本に落とされた2番目の原爆です。
長さ3.3m、幅1.5mの爆縮型のプルトニウム爆弾で、ウランよりもさらに強力なプルトニウムから作られていました。
原爆投下
広島が、原爆の最初の標的に選ばれました。
なぜなら、陸軍基地を持つ広大な港湾都市だったからです。
広島は第二次世界大戦の初期の爆撃であまり損害を受けておらず、荒廃の様子で新しい原子兵器の力がよく分かると考えられました。
1945年8月9日、2度目の原爆の目標は小倉の予定でした。
しかし雲が多すぎて視覚的にターゲット設定が難しく、第二標的だった長崎に変更されました。
プロジェクトAとも呼ばれる「プロジェクト・アルバータ」は、マンハッタン計画の1セクションでした。
マンハッタン計画で開発された原子兵器を運ぶための航空機の改造と、武器運送のテストを行い、戦闘中の原子兵器配達の準備をしていました。
B-29スーパーフォートレス爆撃機は、マンハッタン計画で原子爆弾を配備するために改造されました。
乗組員と武器取り扱いチームの組織と訓練は、プロジェクト・アルバータの重要な仕事でした。
広島では6万人が瞬時に死亡、その後20万人が火傷や放射線による怪我で死亡しました。
長崎に落とされた原爆は、実際の目標から1.6キロ以上外して落下されました。
爆弾は6万5千人以上を殺したか負傷させ、都市の半分を破壊しました。
マンハッタン計画は、戦争での戦い方を根本的に変えたのです。
まとめ
マンハッタン計画とは?目的と具体的な内容、死亡した科学者がいた!、いかがでしたでしょうか。
- マンハッタン計画の目的は原子爆弾の開発で、秘密プロジェクト
- アインシュタインがサインした手紙が委員会設置のきっかけになったが、本人は参加していない
- ロバート・オッペンハイマーがリーダーで原爆の父と呼ばれた
- 事故で2人亡くなっている
- 最初の核実験はトリニティと呼ばれ、原子爆弾のコードネームは「ガジェット」
- 原子爆弾のタイプは2つで、砲身型と爆縮型
- 「シンマン」は放棄され「リトルボーイ」が作られ、広島に投下された
- 長崎に投下されたのは「ファットボーイ」
- マンハッタン計画により戦争の戦い方が変わった
でした。
もっと原子爆弾の是非や、日本に投下したことに対する肯定的な内容が入っているかと思ったのですが、そういうことは一切なく、淡々と説明するのみのアメリカのテキストでした。
おそらく先生によっては、これに補助でプリントを出して、生徒達に考えさせたり、よく言われる、
原爆のおかげで第二次世界大戦が終わったのよ。
なんて教える先生もいるのかも知れません。
日本人としては、いろいろ考えさせられてしまいますね…。