こんにちは、2000年からシリコンバレー在住のMAKIです。
ペリーが黒船で来航し「開国」を迫った、そう習っていたのに、
教科書から「鎖国」という表記が消える
そう知ったのは、数ヶ月前のことです。
ここで疑問に思ったのは、
アメリカではペリー来航をどう教えているのだろう?
ということ。
これが、アメリカの子供達が習う「マシュー・ペリーの日本派遣」です!
- マシュー・ペリー代将は蒸気船海軍の父
- ペリー来航の理由と軍事力の実証
- 黒船と当時の日本
- ペリー到着!砲艦外交
- 神奈川条約(日米和親条約)締結
をお送りします。
マシュー・ペリー代将は蒸気船海軍の父
ミラード・フィルモアは、1850年7月9日から1853年3月4日まで就任した、第13代アメリカ大統領です。
フィルモア大統領任期中にあった最も重要な出来事の1つが、マシュー・ペリー海軍代将の日本派遣でした。
他に目立った功績は上げていない大統領です。
ホワイトハウスに初めて図書室、水道、調理用ストーブを導入!なんてこともしましたが、これ大統領夫人だし^^;
マシュー・ペリー代将(1794〜1858)は、オリバー・ハザード・ペリー代将(1785〜1819)の弟です。
オリバーは米英戦争の、エリー湖の戦いで勇敢に戦った英雄です。
マシュー・ペリーは1794年4月10日、ロードアイランド州ニューポートで生まれました。
兄の足跡をたどるように、海軍に入り、蒸気船の開発に携わり、1837年に海軍大佐に昇進しました。
兄のオリバーは英雄でしたが、ペリーは偉大な革新者で、蒸気戦力の軍艦への応用を開拓しました。
1837年、アメリカ海軍初の蒸気船、フルトン号を建造。
ペリーは、蒸気機関を搭載した蒸気船を米海軍に導入したことで、
「蒸気船海軍の父(Father of the Steam Navy)」
として知られるようになりました。
こんな感じ?蒸気船イメージ
いよいよ日本へのミッション登場です!
ペリー来航の理由と軍事力の実証
1852年3月、ミラード・フィルモア大統領は、マシュー・ペリー代将に命令しました。
アメリカ海軍の東インド艦隊を指揮し、日本との外交交渉関係を樹立してくること
当時の日本は歴史的に、ほとんどの国との接触を禁じる孤立主義政策を取っていました。
例外は、中国、朝鮮、オランダでした。
ここで「Sakoku meaning “locked country”」という表記が出ています!
アメリカのテキストに「鎖国」が載ってました!!
でもこれも無くなってしまうんですかね〜。
フィルモア大統領がマシュー・ペリー代将に日本遠征を命じた理由は以下の通りです。
- カリフォルニア州の合併により、太平洋に港が作られたので、北米アジア間のアクセスが簡単になったこと
- 中国の港が貿易のためにどんどんと開かれていたこと
- 蒸気船の開発により、遠方の港への迅速なアクセスが可能になったこと
- 米国と中国で有利な取引をしている間に、蒸気船は燃料や物資補給を目的とした寄港地を確保する必要があったこと
- 1843年に英国が香港を植民地にしたので、米国は日本へのアクセスを失うことを恐れたこと
米国はずっと日本と外交・商業関係を築きたいと思っていました。
1846年、ジェームス・ビドル司令官は、砲72門搭載の軍艦1隻を含む2隻の船に命令しました。
しかし彼の貿易協定の要請は、失敗に終わりました。
1849年、ジェームズ・グリン艦長の指揮を受けた別の探検隊は、より有利な対応を受けたことで、米国議会にこうアドバイスしました。
「アメリカと貿易するよう日本を説得するには、軍事力の実証が有効である」
これが、マシュー・ペリーの1853年日本遠征への道を拓くこととなったのです。
黒船と当時の日本
新しい蒸気船は、優れた軍事力を効果的に見せつけるのに最適な船でした。
日本人には知られていなかった最新の蒸気機関技術も使用していました。
「黒船」と呼ばれたマシュー・ペリー代将の蒸気船には、新しいペクサン砲も装備されていました。
1853年のペリー日本派遣中、ペクサン砲はミシシッピ(ペクサン10砲)とサスケハナ(ペクサン6砲)で使われました。
日本と取引するすべての西洋船が、「黒船」と呼ばれました。
最初の「黒船」が日本に到着したのは1543年、ポルトガル所有の船でした。
ポルトガルは、1639年に追放されるまでゴア(インド)と長崎を結ぶ貿易ルートを確立し、日本との最初の接触を始めました。
ポルトガルの大きな貨物船は船体が黒く塗られていました。
なので「黒船」という言葉は、最初は古い船舶の、船体の黒い色を指していました。
マシュー・ペリー代将の船にも同じ表現が使われました。
ペリーの「黒船」も黒く塗装され、煙突から石炭の黒い煙も出ていました。
日本人は蒸気船を見たことがなかったので、ペリーの「黒船」が「巨大なドラゴンが煙を吐いている」ように見えたようです。
ペクサン砲は、「ドラゴン」が火を吐く力も持っていることを証明していたでしょう。
「黒船」という言葉は、後に日本では、西洋技術による脅威を象徴するものとなりました。
マシュー・ペリーの日本遠征時、日本政府は弱体化していました。
日本の統治者、孝明天皇は京都で唯一の象徴的な力を持っていました。
しかし真の権力は、徳川幕府が保有していました。
徳川幕府は、軍隊を基本とする日本の領主による独裁政治の形です。
幕府のリーダーは、第13代将軍の徳川家定でした。
将軍は日本の本当の支配者で、侍に守られていました。
ペリー日本代表団の時の将軍は徳川家慶でしたが、ペリーの艦隊が到着したすぐ後に61歳で亡くなりました。
1853年に息子の徳川家定が跡を継ぎました。
新将軍、徳川家定は、経験もリーダーシップの強さにも欠けていました。
ここら辺、アメリカの表現なのでちょっと独特かもですね。
ペリー到着!砲艦外交
マシュー・ペリー代将は1853年に日本に到着しました。
- サスケハナ(蒸気船)
- ミシシッピ(蒸気船)
- プリマス(帆船)
- サラトガ(帆船)
という4隻の艦艇(すべて黒い船体)の指揮を取っての到着でした。
ペリーは日本文化を研究していましたし、新将軍による日本の政治的・軍事的不安定性さを知っていました。
ペリーは徳川幕府の代表者たちと会い、外国人に開かれている唯一の港、長崎に向かうよう告げられました。
長崎の外国人港への入港は拒否し、ペリーは日本人に強い衝撃を与えることにしました。
1853年7月2日、ペリーは将軍の首都、江戸(東京)湾近くの浦賀に直接入り込みました。
戦艦4隻、乗組員967人、大砲61砲を伴い、米国との貿易港を開くよう要求しました。
ペリーの戦艦は間近に近づくと、日本人が見たことがないほど大きく、暗い船体と黒い煙は「黒船」の名前をさらに強調し、圧倒しました。
その後、彼は浦賀港にある建物のいくつかにペクサン砲の砲撃を命じ、日本人を脅かし、米国の軍事力を実証しました。
軍事力で脅迫するこれを、砲艦外交と呼びます。
マシュー・ペリーは、ミラード・フィルモア大統領からの親書を日本皇帝(将軍)に手渡しました。
そして返答を聞くため翌年に戻ると宣言しました。
マシュー・ペリーは1853年7月14日、日本を去りました。
神奈川条約(日米和親条約)締結
約半年後の1854年2月のペリー日本遠征は、8隻の戦艦から成っていました。
戦艦の名前は:
- ポーハタン(蒸気船)
- サスケハナ(蒸気船)
- ミシシッピ(蒸気船)
- マセドニアン(帆船)
- サラトガ(帆船)
- サウサンプトン(帆船)
- バンダリア(帆船)
- レキシントン(帆船)
マシュー・ペリーは2月13日に日本に到着しました。
日本の役人と会い、日本側がフィルモア大統領の親書に書かれたほぼ全ての条項を認めたことを知りました。
条項の内容は、次のようなものです。
- 日米間の平和と友好、外交官の交流
- 下田での米国領事の許可
- 下田と函館に米国船舶用に2つの港を開港
- 米国の船舶が石炭などの必要物資を日本の港湾で購入する許可
- 米国船員の保護
- 5年以内の港湾開港に合意
1854年3月31日、日米最初の条約となる、神奈川条約(日米和親条約)が締結されました。
まとめ
ペリー黒船来航と開国について、いかがでしたでしょうか。
- マシュー・ペリー大将はミラード・フィルモア大統領の命令で日本に来た
- 当時の日本政府は弱体化していたので、軍事力を見せつけると有効と思っていた
- 黒船とペクサン砲の砲艦外交で大統領からの親書を渡し、一旦は帰国
- 翌年にまた戻り、神奈川条約(日米和親条約)を締結
でした。
軍事力を見せつけるのが有効だと分かっていて、それをやったんですねー。
結構しっかりと「脅す」という表現が使われていて、日本人としてはちょっと複雑でした。
「鎖国」という表現は、これからどうなっていくのでしょうね?
意外とアメリカでずっと残っていたりしたら、面白いですね。