ベトナム戦争アメリカが負けて撤退した理由と影響

ベトナム戦争というと、どんなイメージがあるでしょうか?

ジャングルでの過酷な戦い、枯葉剤、反戦運動…

映画だと、フルメタル・ジャケット、プラトーン、ジェイコブス・ラダー、まだまだたくさんありますね。

でも、戦争自体については、どういった紛争だったのか?、的確に説明できなかったりしませんか。

 

この記事では、アメリカで子ども達が教えられているベトナム戦争を、 Q&A形式でわかりやすくご紹介します。

ベトナム戦争とは

ベトナム戦争(Vietnam War)

いつ?:
1955年11月1日から1975年4月30日

どこで?:
インドシナ半島
(インドと中国=シナに挟まれた半島、インドシナ半島)

誰が?:
ベトナム共和国と、ベトナム民主共和国が、

何をした?:
戦争し、ベトナム民主共和国(社会主義側)の勝利

どうして重要?:
アメリカをリーダーとした資本主義・自由主義陣営と、ソビエト・中国をリーダーとした共産主義・社会主義陣営の代理戦争であり、多大な死傷者を出し、反戦運動など社会に大きな影響を与えたから

ベトナム戦争の期間と米軍の関与

ベトナム戦争は、1955年11月1日から1975年4月30日まで、
期間にして19年と5ヶ月、4週間と1日、続きました。

長いですね、子供が成人しちゃいます。

 

アメリカが一番長く関わった戦争です。
アメリカの最初の戦闘隊がベトナムに送られたのは、戦争開始から9年ちょっと後の1965年3月です。
そして米軍の関与が終了したのは、戦争終結より2年弱早い1973年8月15日です。

なぜベトナム戦争は起きたのか?

ベトナム戦争の主な原因は、

革命家ホー・チ・ミンが率いる北ベトナムの共産主義政府が、両国の統一を求めて、
反共産主義者であった南ベトナムの初代大統領ゴ・ディン・ジエムに対して、
南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)によるゲリラ戦争を起こしたから

です。

ゴ・ディン・ジエム大統領は、1963年、ベトナム共和国の軍事クーデターにより殺害されました。

アメリカは、インドシナで共産主義の普及を止めるため、紛争に参入しました。
ハイ、いつものパターンですね。

ベトナム戦争で勝ったのは?

1973年に米軍が撤収した後、共産主義側の勝利で終わりました。
南ベトナム、ベトナム共和国は、1975年に首都サイゴンが陥落し、消滅しました。

だから、アメリカはベトナムでの戦争に敗北しなかった、南ベトナムが負けたのだと反論することもできます。
アメリカが軍事行動から撤退し、議会が資金提供を中止した後のことなのだから、と。

と、アメリカでは教えています。
まあ確かに、アメリカがどこかの国と直接戦った訳ではありませんけどね。

 

アメリカが最も関与していた時、毎月20億ドルの費用が掛かっていました。

北ベトナムは引き続き中国とソ連が援助と供給をして、遂に南ベトナムを堕としたのです。

ベトナム戦争の戦死者の数や帰還兵の状況は?

長期にわたる紛争の終結により、38,224人の軍隊と14,844人の海兵隊員を含め、5万人以上のアメリカ人を含む、300万人以上が死亡しました。
殺害された人の半数以上がベトナムの民間人でした。

アメリカでは、ベトナム戦争のために、259万人が自国に尽くしました。
58,307人が死亡し、304,000人が負傷、そのうち75,000人が重度の障害を負いました。

肢切断や壊滅的な損傷は、第二次世界大戦時よりも300%も高く、ベトナム戦争に奉仕したアメリカ人10人に1人が負傷者でした。

殺害された米軍の平均年齢は、23歳でした。

ベトナムでの過酷な戦闘

ベトナムは、樹木や薮、深い谷、河川三角州、山、尖った尾根、洪水田、プランテーション、ジャングルからなる難しい地形で、戦うのが難しい、恐ろしい国でした。

暑さ、雨、昆虫、ヒルは、汗でずぶ濡れのアメリカ軍を衰弱させました。

 

アメリカは、ベトナムでハイテク戦争を行いました。
B-52爆撃機、大砲、ヘリコプター、ナパーム弾、枯葉剤を使用しました。

枯葉剤は、(オレンジ色の容器に入っていたためそう呼ばれた)オレンジ剤(エージェント・オレンジ)というダイオキシンを含む強力なものでした。
1962年から1971年、米軍が広範囲に散布した化学除草剤で、ベトコンの隠れ家のあるジャングルの植物を枯らしました。

ナパーム弾は、アメリカ軍が開発した、可燃性が高く、粘着性があり、ゼリー状の油脂焼夷弾です。
多くのベトナムの兵士や民間人を傷つけ、殺害しました。

ベトナム戦争では、ヘリコプターが大活躍しました。

第二次世界大戦では、平均的な兵士の戦闘日数は、4年間で約40日でした。
しかしベトナム戦争では、ヘリコプターの機動力により、兵士の戦闘日数は1年で約240日と飛躍的に伸びました。

ヒューイと呼ばれたベル・エアクラフト社のUH-1 イロコイスは、対ゲリラ作戦で広く使われました。
紛争中に7,013のヒューイが飛行し、1,047人のパイロットが命を落としました。

ヒューイは、負傷兵輸送用ヘリとしての役割も果たしました。
約50万のミッションを飛行し、90万人以上の患者を移送、その半数近くがアメリカ人でした。

ヘリコプターの飛行は非常に危険でした。
第二次世界大戦時の爆撃機は、通常、敵の砲火にさらされ時間は、わずか10〜20分でした。
しかしベトナムで低空飛行するヘリコプターは、ベースキャンプでも常に敵の砲火にさらされていました。

ベトナム戦争時のアメリカ大統領と主要人物

ベトナム戦争時のアメリカの大統領4人と、主要人物は以下です。

ドワイト・アイゼンハワー大統領:南ベトナムへの軍事顧問と軍隊の派遣を増加

ジョン・F・ケネディ大統領:南ベトナムへの軍事顧問と軍隊の派遣を増加

リンドン・B・ジョンソン大統領:50万人の米軍がベトナムに来るまで、軍事的支援を大幅に強化

リチャード・ニクソン大統領:米国の反戦デモ増加により、ベトナムの米軍の数を減らす

ヘンリー・キッシンジャー:ニクソン大統領の国務長官で、最終的な停戦を交渉

ホー・チ・ミン:ベトコンと北ベトナム軍のリーダー

アメリカでの反戦運動

1965年、ベトナム戦争での犠牲者が爆発的に増え、アメリカで反戦運動が急増しました。

紛争を取り巻く問題と、それに反対する理由について議論するため、多くの大学で討論集会が開催されました。

ある人は徴兵制に怒りを表明し、大学生は卒業まで兵役を延期することができました。
これは、低所得の家族や大学に通うことができない少数民族からの抗議につながりました。

反戦運動は、ピース&ラブのフラワー・パワー世代カウンターカルチャーといった若者から支援され拡大しました。
反対者はどんどんと増え、徴集兵はベトナム行きを拒否しました。

 

反戦抗議の結果、アメリカ人は2つの派閥に分かれました。

アメリカに留まり、戦いを望む人々はタカ派と呼ばれ、
アメリカがベトナム戦争から撤退することを望む人々はハト派

として知られるようになりました。

 

反戦運動に大きく影響した事件があります。
以下の2つです。

テト攻勢

テトはベトナムの旧正月です。

1968年1月30日、ベトナムの新年であるテトの期間(暗黙の了解で休戦期間となっていた)に、北ベトナムが南ベトナム全土に大規模な奇襲攻撃を行いました。

アメリカ大使館も攻撃され、この週、ベトナムで死亡したアメリカ兵士の数は、朝鮮戦争で死亡した数を超えました。

この後、多くのアメリカ人は、ベトナム戦争での勝利を諦めたと言われています。

ソンミ村虐殺事件

1968年3月16日、米軍は504人の非武装の南ベトナム人住民を虐殺しました。
大部分が老人、女性、子供でした。

当初はゲリラ部隊との戦いと嘘の報告がされましたが、1969年11月に虐殺の真相が暴露され、国を恐怖に陥れました。

この後、ベトナム反戦運動はさらに盛り上がりを見せました。

まとめ

ベトナム戦争について、いかがでしたでしょうか?

  • ベトナム戦争は、1955年11月1日から1975年4月30日にインドシナ半島で起きた戦争
  • 原因はベトナム共和国と、ベトナム民主共和国の内戦だったが、アメリカやソビエト・中国が参戦し、
  • 資本主義vs共産主義の代理戦争となった
  • 勝ったのは、北ベトナムの社会主義・共産主義側で、アメリカは終結前に撤退した
  • 5万人以上のアメリカ人が死亡、7万5千人が重度の障害を負い、10人に1人が負傷者だった
  • ハイテク戦争で、枯葉剤、ナパーム弾、ヘリコプターが大活躍した
  • テト攻勢による犠牲者の増大、ソンミ村虐殺事件を経て、反戦運動は勢いを増し、停戦へと繋がった

でした。

ベトナム戦争、知れば知るほど胸が苦しくなりました。

ベトナムの人達と、アメリカ兵達が(虐殺した人は許せないけど)可哀想。
どれだけ心に傷を負ったのでしょうね。

そしてこれだけのことをされたのに、謝罪や賠償を求めないベトナムの人達に、頭が下がる思いでした。

 

今回参考にしたのは、アメリカが子供向けに提供している資料です。
なので、かなり分かりやすく、簡単に説明されているのではないかと思います。

ちなみに、現在中3の娘にベトナム戦争について学習したのか訊ねたところ、やっていないとの返事!

「高校でやるんじゃない〜?」

と言われました。

多分、州や地域によって違うのだと思いますが、必ずしも小中学校ではやらないのですね。
うーむ、と思いました。