アメリカのシリアルキラーと家族【ワースト10】後半

アメリカに多い

シリアルキラー=連続殺人犯

家族(両親・妻・子供)との繋がりを中心にお送りしている

シリアルキラーと家族、ワースト10の後半

です。

MAKI

皆さんご存知テッド・バンディプロポーズ動画も発見!
ぜひお見逃しなく。

目次

5位:テッド・バンディ

生年月日:1946年11月24日

出生地:バーモント州バーリントン

没年月日:1989年1月24日(42歳)

死因:電気椅子

別名
クリス・ハーゲン
ケネス・ミスナー
オフィサー・ローズランド
リチャード・バートン

判決:死刑

配偶者
キャロル・アン・ブーン(1979年〜1986年)

子供:1人

犠牲者数:30人以上

犯行期間
1961年8月13日
1974年2月1日〜1978年2月9日

逮捕日
1975年8月16日
1977年6月7日逃亡
1977年6月13日再逮捕
1977年12月30日再逃亡
1978年2月15日再再逮捕

シリアルキラーという言葉の元になったと言われるシリアルキラーです。

2019年に映画化されています↓

テッドはまだ22歳だった母親の私生児として生まれました。
信仰の深かった母親の両親はこれをスキャンダルとして嫌い、テッドを自分たちの養子にし、母親は年の離れた姉ということにしてテッドを育てました。

テッドは祖父母を両親と信じ、幸せに暮らしていましたが、10歳の時にいとこから出生証明書を見せられ事実を知りました。
自分の本当の父親について話すことがない母親に、テッドは憤りを感じました。

子供の頃のテッドは非常に頭が良く、恥ずかしがり屋でした。
しかしキレると何をするかわからない不安定な一面も持っていました。

ティーンになると、悪癖が出て、覗きや、他人の物を盗むようになりました。
高校時代には少なくも2回、窃盗と自動車盗難の疑いで逮捕されていますが、記録は抹消されています。

高校時代のテッド↓

Ted Bundy HS Yearbook

1965年に高校を卒業すると、ピュージェットサウンド大学で1年を過ごし、ワシントン大学へ進学しました。
そこでテッドはスティファニー・ブルックスというクラスメイトと恋に落ちます。
彼女はカリフォルニア出身の、裕福で家柄の良い、長い黒髪の女性でした。

彼女との別れが、テッドを凶行に走らせた原因だという人もいます。
犠牲者の多くは、彼女と同じ、長い黒髪の女性でした。

1972年にワシントン大学の心理学部を卒業すると、テッドはユタ州のロースクールへ入りました。
またワシントン州の共和党員として知事選の選挙活動に参加し、知事から推薦状を受け取るほどの活躍をしました。
こうして見違えるほど自分を磨き上げたテッドは、改めてスティファニーと再会します。

しかし彼女が自分に夢中になった途端、あっさりと彼女を捨てました。

彼女と結婚できることを自分に証明したかっただけだった

と、後にテッドは語っています。

テッドがいつ、どこで女性を殺害し始めたのか、正確なことや、数も分かっていません。
彼はさまざまな話を、事細かにしていますが、最初の犯罪については明らかに話したがりませんでした。

1961年、テッドが14歳の時に、タコマで8歳の少女を拉致して殺害した状況的証拠があるのですが、彼は頑なに犯行を否定しました。
なので、初期の犯罪記録は27歳の頃、1974年とされています。

ワシントン州シアトルで、女性大生が月に1人の割合で姿を消しました。
行方不明の女性は、若い魅力的な白人で、長い髪を中央で分けている以外は、ほとんど共通点がありませんでした。

テッドの手口は、怪我を装い、人当たりよく手伝いを頼むというものでした。
ハンサムで知的な男性に、女性は簡単に心を許し、人気のない場所に連れ出され、殺害されました。

オレゴン州でも女性を殺害し、捜査の手が及ばない内に、テッドはユタ州のソルトレイクシティへと引っ越しました。
ユタ大学の法科に入学し、モルモン教会の会員になりましたが、集会には全く出席しませんでした。
殺人の舞台はユタ州に移り、1975年にはコロラド州でも行いました。

Ted Bundy Utah house fire escape
バンディが1974〜75年に住んでいたユタ州の家

逮捕のきっかけは、1975年8月16日、ユタ州のハイウェイパトロールに車を停められたことでした。
夜明け前に住宅街をクルージングしていたテッドは、パトカーを見てスピードを上げ逃げようとしたのです。
車の中には、バラクラバ(スキーヤーなどがかぶるウールの目だし帽)、手袋、バール、手錠、その他、強盗ツールと思われるアイテムが見つかりました。

そして1976年3月1日、テッドは1974年に警察官の振りをして女性を誘拐しようとした罪で、有罪判決を受け、1年から15年の禁固刑を宣告されました。
次いで警察は、連続殺人事件でテッドを追求しました。

1977年6月7日、テッドは裁判所の窓から飛び降りて逃亡しました。
しかし着地の際に右足首を捻挫したのもあり、13日には再逮捕されました。

1977年12月30日、他の囚人がシャワーを浴びている間にテッドはまた逃亡しました。
16キロも痩せていた彼は、天井に弓のこで開けた穴から抜け出すことができたのです。
手元には6ヶ月かけて貯めた500ドルもありました。

フロリダに向かったテッドは、フロリダ州立大学のカイ・オメガ女子寮に侵入しました。
ここでまた5人の女性が犠牲になりました。
そして再再逮捕される前に少女が1人…もう逃亡は不可能でした。

法律に詳しかったテッドは、自分の弁護を自分で行いました。
無実を訴えましたが、1979年に死刑を宣告されました。

死刑までの間、1980年にテッドはかつての同僚、キャロル・アン・ブーンと結婚しました。
1982年10月24日にはローズ・バンディという娘も誕生しています。
(相手は刑務所にいるのに妊娠?実は看守に賄賂を渡すことで、親密な時間を持つことが出来たのです。)

しかしキャロルはテッドから離れ、1986年に離婚。
テッドが有罪であると認めたことで、深く裏切られたと感じたのが離婚理由です。
処刑の朝、テッドからの最期の電話も拒否しました。

次の動画はテッドがプロポーズしているところです。
短いですが、字幕が出ているので、「結婚したい?」「はい」と答えているのがわかると思います。

テッドは死刑の日を延ばすため、未解決の連続殺人事件グリーン・リバー・キラーのプロファイリングに協力もしました。
でも永遠に延期することは不可能でした。

1989年1月24日、フロリダ州刑務所のオールド・スパーキーと呼ばれる電気椅子で、テッドは午前7時16分に処刑されました。
外では、群衆が処刑後に騒いで花火を打ち上げました。

テッドは36人の殺害を認めましたが、専門家は最終的には被害者は100人近いのではないかと語っています。

テッドと家族:画像検索リンク(別ウィンドウが開きます)

MAKI

スティファニー・ブルックスが原因という話がありました。
しかし彼女は結局、何の被害も受けていない訳で(手酷く振られた痛手はありましたが、逆に関係持たずに幸いでしたよね?)。
黒髪美女は飛んだとばっちりで、やはり酷い話だと思います。
ハンサムで頭がキレるのに、他に使えばもっと違う道があったのに…やはり母親からの愛が?
ところで娘のローズ・バンティさん、自分の父親がテッド・バンディって、どうなんでしょう?
私だったら母親を恨むと思いますね、エゴだと。
今はすっかり姿をくらましていて、母親と共に名前を変えている可能性が高いそうです。

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4位:チャールズ・イング&レオナード・レイク

チャールズ・イング

生年月日:1960年12月24日

出生地:香港

判決:死刑

犠牲者数:11〜25人

犯行期間:1983年〜1985年

逮捕日:1985年7月6日

レオナード・レイク

生年月日:1945年10月29日

出生地:カリフォルニア州サンフランシスコ

没年月日:1985年6月6日(39歳)

死因:青酸カリによる自殺

判決:ー

配偶者
?(1975年〜?)
クララリン・バラージュ(1981年〜1982年)

犠牲者数:11〜25人

犯行期間:1983年〜1985年

逮捕日:1985年6月2日

レオナード・レイクはカリフォルニア州のサンフランシスコで生まれました。
6歳の時に両親は離婚し、レオナードと兄弟は祖母と暮らすようになりました。

高校に通った後、1964年に海兵隊に入隊し、ベトナム戦争に参加しました。
そこで統合失調性人格障害と診断され、1971年に除隊しました。

除隊後はサンフランシスコのヒッピースタイルに魅了され、コミューンで1975年に結婚しました。
しかしレオナードがポルノ映画を作っているのを知ると、妻は去って行きました。

その次の8年間は、カリフォルニア北部のユカイアの北にあるカルペラ近郊の、5600エーカーのグリーンフィールドランチに住みました。
そこでクララリン・バラージュと出会い、結婚、彼女はクリケットと呼ばれ、彼の映画にたくさん出演しています。

レオナードは1981年に戦争ゲーマー雑誌の広告を出したことで、海兵仲間のチャールズ・イングと再会しました。

1983年のチャールズ・イング↓

Charles Ng

チャールズは香港で生まれ、中国の裕福な幹部の息子でした。
子供の頃は厳しく躾けられ、父親に虐待されることもありました。

15歳で万引きで捕まり、放校になると、父親の勧めで英国の寄宿学校に行きました。
しかし、そこでも盗みを働いて追放され、香港に戻ってきました。

1978年に学生ビザでアメリカに渡ると、カリフォルニア州ベルモントのノートルダムカレッジで生物学を学び始めましたが、1学期で中退。
すぐ後にひき逃げ事故を起こし、追訴を避けるため、偽証明を使って米軍海兵隊に入隊しました。
しかしここでも、自動小銃を盗んだ罪で軍警察に逮捕され、1980年には海兵隊員を辞めて北カリフォルニアに戻ってきました。

MAKI

いや、もうクズですな。

そこでレオナードと再会します。

1982年、2人はユカイアでモバイルハウスをシェアしながら、違法兵器と爆発物を大量に保持しているのを連邦当局に摘発されました。

レオナードは6000ドルの保釈金を払い、たくさんの仮名を使って州を渡り歩きました。

チャールズは海兵隊に戻され、窃盗と暴行の罪で告訴されました。
そして18ヶ月間、レヴェンワース連邦刑務所の軍備保管所を務めた後、1984年に不名誉除隊させられました。

チャールズは除隊後、すぐにレオナードに連絡を取りました。

MAKI

ああ、また2人が一緒に…ヤメてくれ〜。

レオナードはサンフランシスコ東部のカラベラス郡にある、山奥の小屋を借りていました。
2人はそこで、11〜25人の乳幼児を含む男女を拷問、殺害し、その様子をビデオに納めました。

逮捕のきっかけは、1985年6月2日、南サンフランシスコの工具店で、チャールズが万力を万引きして捕まり、逃げ出したことでした。
レオナードは支払いをしようと店に行きましたが、警察が到着しました。

警察官は、レオナードが運転免許証の写真と似ていないことに気づきました。
免許証の写真は、数週間前に行方不明となっていた男性のものだったのです。

拘束されると、レオナードは衣服に縫い付けてあった青酸カリの丸薬を飲み、4日後に死亡しました。

そして山小屋からは、恐ろしいビデオテープ、たくさんの拷問道具、写真、人骨が発見されたのです。

チャールズはカナダで捕えられ、カリフォルニア州に連れてこられました。

証拠のビデオやレオナードの詳細な日記があるにも関わらず、自分はただの傍観者だったと主張しました。
レオナードが1人で、誘拐、強姦、殺人の全てを計画していたと言うのです。

裁判には、香港から父親も来ました。
息子を真っ直ぐに育てたかった、だから縛って棒や鞭で打ったと説明しました。

正しい方向に導こうとしたのです。
これが普通だと思っていました。
でも残念ながら、私の方法は間違っていたと分かりました。

父親がそう証言した時、チャールズは頭を下げて座っていました。
なので聴衆は彼の顔を見ることができませんでしたが、弁護士によると、彼は泣いていたそうです。

息子を打ちました
妻は私を止めようとしました。
義母も私を止めようとしました

父親は何度も涙で喉を詰まらせながらそう言いました。

1999年2月、チャールズは12件の殺人の内、11件で有罪判決を受け、死刑を宣告されました。

死ではなく、刑務所で生きて罪を償って欲しい

と父親は語りました。

チャールズは今も、カリフォルニア州のサン・クエンティン州立刑務所で死刑囚です。

チャールズと家族:画像検索リンク(別ウィンドウが開きます)

レオナードと家族:画像検索リンク(別ウィンドウが開きます)

MAKI

チャールズが絵に描いたようなクズでした。
こんな人間をアメリカに送り込まないで欲しいです。
でも父親の語りはちょっと切なかったですね。
でも厳しくしただけでこう育つかな?
ところでレオナードの元妻、クララリンはチャールズがカナダに逃亡するのを手伝ったり、ビデオを処分したりとしたそうですが、全く罪には問われていないそうです。
ビデオには拷問シーンしかなかったそうですが、殺害シーンは彼女が証拠隠滅したんじゃないかなあ?と思いました。

3位:ジョン・ウェイン・ゲイシー

生年月日:1942年3月17日

出生地:イリノイ州シカゴ

没年月日:1994年5月10日(52歳)

死因:薬殺刑

別名:キラー・クラウン

判決:死刑

配偶者
マリリン・マイヤーズ(1964年〜1969年)
キャロル・ホフ(1972年〜1976年)

子供:2人

犠牲者数:33〜34人

犯行期間:1972年1月3日〜1978年12月11日

逮捕日:1978年12月21日

キラー・クラウン、子供達を喜ばせるためピエロの格好をすることが多かったのが名前の由来です。
スティーブン・キングの小説『IT』の殺人鬼ペニーワイズのモデルです。

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ジョンの父親は自動車修理技師で、ジョンは3人の子の一人息子でした。

父親は姉妹と比較して「お前はバカだ」「ホモになる」と責め立て、ベルトで叩いて罵りました。
母親はジョンを父親の身体的虐待から守ろうとしてくれましたが、ジョンは父親に愛されたいと常に思い、慕っていました。

1964年、マリリンという女性と結婚したジョンは、アイオワ州ウォータールーに移住しました。
マリリンの父親が所有するケンタッキーフライドチキンの3店舗を管理し、マリリンの両親の家に入ることになりました。
ジョンは「眠らない男」として有名で、働きに働きました。

マリリンは2人の子を産み、1966年2月にマイケルという息子、1967年にクリスティンという娘が生まれました。
後にジョンは人生のこの時期が「パーフェクトだった」と語っています。
1966年7月にはジョンの両親がアイオワ州のジョン夫妻の元を訪れ、身体的・精神的虐待をしていたことを謝罪し、

息子よ、自分が間違っていた

と告げました。

しかし1968年12月、ジョンは少年への性的虐待の罪で懲役10年の実刑判決を受けました。
翌年、マリリンは離婚を要求し、離婚が成立しました。

1969年のクリスマスの日、ジョンの父親が肝硬変で亡くなりました
ジョンに告げられたのは、死後2日経ってからでしたが、ジョンは床に突っ伏して泣き崩れました。
そして父親の葬儀に出席するために、刑務所からの思いやり休暇を希望しましたが、当然ながら却下されました。

模範囚として18ヶ月で仮釈放されたジョンは、母親と暮らすためにシカゴに移住しました。
仮釈放終了後には、母親からの援助で家を買いました。
この家は、1978年に逮捕された時の殺人事件が起きた家です。

1972年7月、妹の友人であるキャロル・ホフと結婚、母親は家を出ました。
料理人として働いていたジョンは、心機一転、室内装飾の事業を起こし、1978年までに売り上げは200,000ドルを超えるようになりました。

地元のコミュニティでも活躍し、シカゴで毎年あるポーランド憲法の日パレードでは、ジミー・カーター大統領の妻ロザリンと握手までしたのは有名な話です↓

Johnwaynegacyrosalynncarter

またピエロ「ポゴ」の姿で福祉施設をよく訪れました。

1975年までに妻キャロルにはバイセクシュアルであることは告げ、翌年には相互の同意で離婚が成立しました。

最初の殺人は1972年、グレイハウンドのバスターミナルで会った16歳の少年でした。
2人で夜を過ごした翌朝、寝室のドアでナイフを持っている少年を寝起きに発見し、咄嗟に刺殺、しかし彼はキッチンでサンドイッチを用意していただけでした。
ここからジョンは殺人を繰り返すようになります。

1972年から1978年の間に33人の少年、若い男性を殺害しました。
被害者を自宅に誘い込み、手錠をかけたり縛ったりして拘束、暴行、拷問し、殺害するのが手口で、遺体は床下に埋めていました。

逮捕のきっかけは、1978年、ジョンの会社にアルバイトの面接に来た少年が行方不明になったことでした。
家宅捜査が行われ、一連の事件が発覚しました。
床下には腐敗した遺体でいっぱいでした。

逮捕されたジョンは多重人格を主張し、無罪を訴えましたが、詐病と判断されました。
また興味を持って手紙を送って来た少年と文通を始め、模範囚を利用して面会時に殺害しようとしたのが決定打となりました。

1994年5月10日、死刑執行前の食事はケンタッキーフライドチキン、フライドポテト、エビフライ、イチゴ、ダイエットコークでした。
薬を投与しましたが、手違いで化学物質が凝固してしまい、ジョンの腕へのチューブを詰まらせてしまいました。
チューブを取り替えるのに時間がかかり、ジョンは20分近く苦しんで絶命しました。

ジョンと家族:画像検索リンク(別ウィンドウが開きます)

またジョンが描くピエロの絵画でも有名です。
絵画展が開かれて、高値で取引されているとか^^;
あのジョニー・デップも購入したそうです!

ジョンのピエロ絵画:画像検索リンク(別ウィンドウが開きます)
※検索なので、違うものもいっぱい混じると思われます。ご容赦ください。

MAKI

ジョンはずっと父親に愛されたかったのですね。
ゲイになると言われ続けたことで、そうなったのか、元々の性癖だったのかは分かりませんが、父親から虐待の謝罪を受け、どうしてまた父親を失意させるようなことをしてしまったのか…そんな自分でも愛していると言って欲しかったのかな?
でも父親は死んでしまった。
うーん、でも巻き添えになった犠牲者はたまったものじゃないですね。
仕事の能力はとても高いようだし、コミュニケーション能力も高いし、一見は成功するタイプ。
なのにちょっとしたことで歯止めが利かなくなってしまう…やはり問題ありです。

2位:トミー・リン・セルズ

生年月日:1964年6月28日

出生地:カリフォルニア州オークランド

没年月日:2014年4月3日(49歳)

死因:薬殺刑

別名:クロス・カントリー・キラー

判決:死刑

犠牲者数:1人の有罪判決、22人以上の疑い

犯行期間:1980年〜1999年12月31日

逮捕日:2000年1月2日

クロス・カントリー・キラー、アメリカを西から東に渡りながら殺人を繰り返したのが名前の由来です。

18ヶ月の時、髄膜炎にかかり双子の妹は死亡、トミーは生き残りました。

母親は育児に関心がなく、2歳になると叔母にトミーを預けました。
しかし叔母がトミーを養子にしようとすると連れ帰り、2度と会わせませんでした。

不登校になっても母親は育児放棄、劣悪な環境で育ったトミーは14歳で家出をしました。

MAKI

母親、ヒドイですね、せめて叔母さんに預けていれば…。

最初の殺人は16歳の時、少なくとも70人を殺害したといいます。
1985年から1999年の間にいくつかの残虐な殺人事件で有罪判決を受けました。

逮捕のきっかけは、1999年12月31日、テキサス州デル・リオで13歳の少女を殺害、友人の10歳の少女にもナイフを切りつけたことでした。
しかし10歳の少女が死んだふりをしたことでトミーの逮捕へと繋がったのでした。

人を殺すことに何の罪悪感も感じていないトミーは、

血の感覚は最高だ

と目を輝かせて語りました。

PolunskyUnitWestLivingstonTX
トミーがいた刑務所

死刑執行時には、薬を投与されると、深呼吸を数回して目を閉じ、いびきをかきました。
1分も経たずに動かなくなり、13分後には死亡が確認されました。

トミーと家族:画像検索リンク(別ウィンドウが開きます)

MAKI

両親の名前もフルネームで分かっているのに、記事が全然ヒットしませんでした。
本当に全く関心がないのでしょうね。
可哀想な人です。

1位:ゲイリー・リッジウェイ

生年月日:1949年2月18日

出生地:ユタ州ソルトレイクシティ

別名:グリーン・リバー・キラー

判決:仮釈放無しの終身刑

配偶者
クラウディア・クレイグ・バローズ(1970年8月15日〜1972年1月14日)
マルシア・ロレン・ブラウン(1973年12月14日〜1981年5月27日)
ジュディス・ロレーヌ・リンチ(1988年6月12日〜2002年9月5日)

子供:1人

犠牲者数:49人の有罪判決、告白は71人、少なくも90人以上と推定

犯行期間:1982年〜1988年が確認、しかし2001年の可能性も

逮捕日:2001年11月30日

刑務所:ワシントン、ワラワラ、ワシントン州刑務所

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クリエイティブ アクザ

父親はバスの運転手で、娼婦の存在について不平を言うことがよくありました。

ゲイリーは16歳の時、6歳の少年を森に連れて行き、刺したことがあります。

20歳で高校を卒業し、高校の時の恋人クラウディアと結婚し、海軍に入隊、ベトナムへ送られました。
娼婦と関係を持ち、淋病になり怒りを感じましたが、行為は続けました。

海外で不倫をしたため、婚姻関係は終了しました。
2回目の結婚も、双方の不倫で離婚になりました。

ゲイリーは性欲が強く、1日に数回の行為を求めたといいます。

1980年代から1990年代にかけて、シアトル、ワシントンの近くで少なくとも71人の女性を殺害しました。
被害者の多くは娼婦でした。

ほとんどの遺体はグリーン川周辺の森林地帯に放棄されました。
遺体はまとめて残されることが多く、時にはポーズを取らされ、通常は裸でした。

2001年、ケンワーストラック工場でスプレーペインターとして働いていたゲイリーを、警察が逮捕しました。
DNA鑑定で判明した、約20年前に4人の女性を殺害した容疑でした。
その時のマグショット↓

Gary Ridgway Mugshot 11302001

2003年、ゲイリーは検察側と司法取引をし、48人の犯行を認める代わりに死刑は免れ、仮釈放なしの終身刑を言い渡されました。

息子のマシューには大人しくて良い父親だったそうです。
しかし犯行前に被害者に息子を会わせて安心させる、トラックで寝ている間に犯行に及ぶなど、常軌を逸する行為がありました。
マシューは犯行に気づいておらず、父親がシリアルキラーである実感が今でもないそうです。

ゲイリーと家族:画像検索リンク(別ウィンドウが開きます)

MAKI

1位が司法取引で死刑になっていない…しかも息子には大人しい良い父親に見えていた、なんとも複雑な思いでした。
ゲイリーの被害者の多くは娼婦だったと言うことで、父親が幼少期に不満を言うことで、どう扱っても良いという意識を植え付けたのでしょうか。
それにしても、数が多すぎます。

まとめ

シリアルキラーと家族アメリカワースト10後半、いかがでしたでしょうか。

  • 5位:テッド・バンディ
  • 4位:チャールズ・イング&レオナード・レイク
  • 3位:ジョン・ウェイン・ゲイシー
  • 2位:トミー・リン・セルズ
  • 1位:ゲイリー・リッジウェイ

でした。

前半以上に長くなってしまいましたが、お読みいただいてありがとうございました。

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